今日は、クリスマスイブ。
東京タワーもピカピカとクリスマスツリー化していました。
この愛の日に、論争するのもどうか、という気はするものの、浜辺教授から「再々抗弁」も提出されたことですし、「会社法はこれでいいのだ」第2弾をお送りします。
なお、浜辺教授の再々抗弁に対する反論は、長大なので、後ろの方に回しています。興味ある方はご覧ください。また、あまりに長くなりすぎたので、質問コーナーはお休みです。
さて、「会社法は、これでいいのか」は、随所に突っ込みどころがあるのですが、今日は
「立法担当者の責務放棄」について反論しましょう。
同書の36ページ以下で、企業会計という雑誌の郡谷さんと稲葉さんの対談が引用されています。
この対談は、新会社法と旧商法の哲学の違いをまざまざと見せつけるという点で、非常に面白いものですが、浜辺教授は、この対談中の郡谷さんの
「特定のニーズを思い浮かべて制度をつくるということを、会社法はしていません」
という発言を捉えて
「会社法ほどの重要な法律なのですから、明確なビジョンなりポリシーを持って立法にあたったはずです。そして、誰もがそうなっていると思いこんでいましたが、実は必ずしもそうではないとうことを立法担当者が白状するに至っているのです」
と批判しています。
しかし、郡谷さんだけでなく、会社法の立案担当者は、「明確なビジョンなりポリシー」を持って
「稲葉さんをはじめとする従来の立案担当者のように、特定のニーズがある場合に限って、それを認めるという発想は駄目だ。
会社と関係者が、意思表示によって権利義務を設定することは、本来自由なのだから、立案担当者の狭い常識の中で、しかも、立案当時に存在するニーズ以外に対応できないというような規制をすることは、基本法としてふさわしくない。
将来、どのようなニーズが生じても会社法が対応できるように、不都合が生じない限り、理論的にありうる制度設計をできるかぎり広く許容しよう」
と考えて、立案しています。
稲葉教授や浜辺教授の考え方の特徴は
「規制を原則」
としている点です。たとえば、種類株式の設計でも、原則は禁止で、特定のニーズがある場合のみ、これを例外的に認めるという発想のように見受けられます。
しかし、ニーズを厳密に想定しなければならないのは、規制を行う場合です。
すなわち、
具体的な規制を行うニーズがある場合に限り、規制することができる
という考え方が正しいわけです。
この命題は、裏を返せば
具体的な規制を行うニーズがない限り、規制をせず、当事者の意思に委ねる
ということを意味します。
これが私法の原則であり、当事者の意思に委ねるのに「ニーズ」は必要ではないのです。
また、浜辺教授は、会社法が社債の発行を持分会社にも認めたことについて
「合名会社や合資会社において社債を発行するということはおよそ考えにくいことです。・・こうした無意味な制度があることで、会社法のセミナーなどでは、あれこれ制度の説明をした挙げ句、「でも、結局これは使えません」というオチになるようなことが、あちこちで起こっています」。
と批判されています。
セミナーで講師が、そういうオチをつけることは、「弊害」とはいいません。
私は、浜辺教授は、社債についての理解が十分ではないと思います。確かに、社債は、原則として、社債管理者の選定や金商法の規制等がかかるので、合名会社等が社債を発行することが実務上困難な場合もあるという点では、浜辺教授は正しいです。
しかし、たとえば、私募等のうち一定のものは、社債管理者の選定も不要であり、金商法の規制もかからず、社債を発行することができますから、手続としては、大変ではありません。
ある地方公共団体では、会社による社債の発行について特別な支援をするような制度がありましたし、金融機関の中には、審査において、証書貸付と社債を別枠で評価するところもあり、証書貸付だけでは難しい融資も、社債と組み合わせることにより、可能になる場合もあります。
その他、社債という制度を有効活用する道はあるわけで、合名会社等から、そうした有効活用できる手段を奪う必要性がどこにあるのでしょうか。「結局、これは使えません」という狭い考え方だけで、合名会社等の社債発行を禁止するのはおかしいです。
さらに、浜辺教授は、有限会社の社債発行について、「有限会社の規制の甘さからしますと、株式会社としての体制もない会社に社債発行まで認めるのが妥当なのかは極めて疑問です。」という例をあげ、会社法が「立法事実も考慮されていなければ、どうあるべきかも深く検討してもいないようであり、どのように弊害を防止するかも不十分です」と述べられています。
しかし、先に述べたとおり、会社法は、弊害が生じるような場面まで許容するようなことはしていません。
たとえば、浜辺教授があげた「社債」の例についても、有限会社に社債を発行させても何の問題もないからこそ、認めているのです。
浜辺教授は、社債の発行を規制の強弱と関連づけているようですが、一体、どう関係するのか、理解できません。社債は、一種の借金です。株式会社にお金を貸す人もいれば、有限会社にお金を貸す人もいるのであり、有限会社はガバナンスが緩いので、貸したくないというのならば、貸さなければよいだけです。
また、株式会社だから社債が償還できて、有限会社だから償還できないという因果関係もありませんし、社債が証書貸付などと異なるのは、公衆の保護のために社債管理者や社債権者集会の制度が置かれている部分ですが、これについては、株式会社も有限会社も共通の規律に服します。この点について有限会社や持分会社に対する規制が緩くなっているわけではありません。
このように浜辺教授の基本的な考え方は妥当ではなく、また、批判の根拠としてあげられている具体例も的外れだと思います。
なお、18頁以下において、浜辺教授は、会社法の立案に郡谷さんが参画していることについて
「本来ならば、少なくとも司法研修所を出て、法律事務家として人並みの経験を積んだ後に、会社法の立法に携わるという順序になるべきであるし、そういうものだと一般的には考えられているのではないでしょうか」「そういう人事を行った権力者の意向が働いていたのではないかと推測するほかありません」
と述べられています。
この文章は、「法律実務家は人並み以上に法律の立案ができる」という奢り以外の何ものでもありませんし、「権力者の意向が働いていた」などというのは、何を言おうとしているか意味すら理解できません。
法律の立案のほとんどは、法律家以外の公務員が行っていますし、法律実務家だろうと、どんなに優秀な学者であろうと、法律の立案という作業については、無能ということも十分ありえます。
大事なことは、適材適所です。郡谷さんは、もし彼がいなければ、会社法が平成17年に成立していなかったかもしれないというほど卓越した働きをしています(しかも、会社法の立案をしながら、旧司法試験に合格するという離れ業をやりとげています)。
浜辺教授も「K氏自身としては、その職務を立派に果たされたと思います」とフォローしているように見せていますが、少なくとも、このあたりの浜辺教授の記述は、この本の品位を著しく落としていると感じます(ちなみに、K氏に続き、H氏として私の紹介もしていただいていますが、この部分は、前後関係からすると、あまり脈略がないので、割愛します。)。
結局、浜辺教授は、郡谷さんが理系出身者だから、会社法では
「因数分解的な手法」
が用いられており、それが、「今までの歴史的な経緯や表現の問題においても、ずいぶん多くの問題を含む結果となって」いるというところを主張しようとしているのでしょう。
そして、その因数分解的な手法に対する批判として、67頁以下に「読めば読むほど分からなくなる会社法」として、いろいろな例を挙げています。
たとえば、浜辺教授は、転換株式だと分かりやすいが、取得請求権付株式だと、取得請求権付株式に関する条文(会社法108条1項5号)と、「取得するのと引き替えに株主に対して他の株式を交付する」(会社法108条1項5号ロ)という条文を組み合わせることによって、はじめて従来の転換予約権付株式と同種の仕組みが定められていると分かるから、わかりにくい、という趣旨のことを述べられています。
しかし、この例で、浜辺教授が「わかりにくい」と思うのは、「従来の転換予約権付株式はどこにあるのだろう」と思って探しているからであり、最初から、会社法で勉強し、種類株式の説明を聞いた人には難しくありません。会社法108条1項5号と同号ロをそのまま読めばいいだけの話です。
また、浜辺教授は、会社法154条1項で「金銭」の二文字ですむところを「金銭等(金銭に限る)」などと表現して、わざと難解にしていると批判しています。
しかし、会社法154条1項を「金銭」とするのは間違いです。浜辺教授の条文の読み方が間違っています。
154条1項は、「第百五十一条の金銭等」と規定し、「株式会社が151条各号に掲げる行為をした場合に、当該行為によって当該株式の株主が受けることのできる金銭等」という長たらしい引用を簡略にしているのです。
その上で、154条1項の対象となるのは、151条の「金銭等」のうちで、「金銭」に限られるので、それをカッコ書きで表現しているのです。
この場合、第151条1項は、あくまで「金銭等」で定義をしているので、その一部部分を「金銭」で引用することはできません。
それにもかかわらず、浜辺教授は、自己の誤解をもとに、154条1項の規定ぶりを「笑い話」として批判されていますから、この点は、増刷の際には変更された方がよいように思います。
その他浜辺教授が具体例としてあげられたことは、それぞれ理由のあって、そのような規定にしているのであり、「わかりにくい」と一括りにしてよいようなことはありません。
もちろん、私は、会社法が「わかりにくい」という点については、そういう面もあるだろうとは思います。
分かりやすいところもあれば、わかりにくいところもあるのは、法律ならば当たり前のことだからです。また、法律専門家が従来の常識をもっているがゆえに、わかりにくいところだって沢山あるでしょう。
しかし、少なくとも法律の専門家を名乗るならば、そういう改正をフォローすべきです。私だって、金商法、独禁法、税法の改正は、わかりにくいけれでも、一生懸命勉強しています。会社法の制定は、平成2年まで続いた規制中心の商法の合理性を徹底的に検証し、数度にわたって自由化の観点から行われた商法改正の総仕上げとして行われたものです。
平成2年までの常識を絶対視して、会社法を見れば、いつまでたっても分からないのは当然であり、会社法の目指すバランスがどこにあるのかを理解すれば、会社法は分かりやすくなると思います。
なお、浜辺教授が、「わかりにくい」ということを問題視されているのは、浜辺教授が「立法担当者から大手法律事務所等に転職した人たちであれば、自分だけは会社法の奥の奥まで知っている元立法担当者として優位に立てる」という思いに囚われていることも一因なのかもしれません。
しかし、もし、私たちが、そんなに優位に立ちたければ、あんなに本を執筆することはなかったでしょうし、このブログで無料で質問に答えたりしないでしょう。ノウハウは、独占した方が得ですから。
浜辺教授が、そういう偏った目で会社法を読むのを止め、従来の商法の欠点や、会社法に込められた哲学を素直に受け止めたれた上で、会社法を批判されれば、より深い議論ができるでしょう。
<浜辺教授の再々抗弁に対する反論>
>浜辺教授「葉玉先生の引用がかなり恣意的で、都合よく改ざんされておりますので、その改ざんを前提に読まないで頂きたいのです。残念ながら、12月22日の葉玉先生の議論は、いつもと違って少しアンフェアな議論が目立ちます。
葉玉:もし引用が浜辺教授のご趣旨と違うのならば、申し訳ありませんでした。なるべく原文を生かしているつもりですが、いずれにせよ、読者には、原文を読むこともできますので、私の引用が恣意的かどうかは読者の判断にゆだねたいと思います。
なお、今回の浜辺教授の再々抗弁は非常に長いので、読者のために一部要約することをお許しください。
>浜辺教授「第一に、この議論を通して、最近の立法が一体誰のために、役人たちが、どういう姿勢で法律を作っているかを浮き彫りにできるかもしれないと思うから。
第二に、今後の立法の方向性はどうあるべきか、を考える参考になるかもしれないと思うから、そして、これらの議論を通じて「エリート官僚支配」を打破するための議論のために小さな一石でも投じることができればという思いからです。」
葉玉:第一の点は、最近の立法は、海外からの輸入ではなく、現実にその法律を使っている人たちの声を聞いて、その人たちのために作っています。浜辺教授は、それが「財界エリート」に偏っているように思われているかもしれませんが、今、話題になっている「最低資本金制度の撤廃」などは財界とは全然関係のない中小企業や脱サラの方の声から作られたものであり、たくさんの利害関係者の意見の調整の中からできあがっています。
役人たちが、どういう姿勢で法律を作っているか、という点については、役所によって、かなり違うでしょう。法務省民事局は、基本的には、行政法ではなく、私法の領域を取り扱っているので、どちらかというと民事局自体が何か目標設定をして改正をやろうとするようなことは少ないです。民間からの改正の声を聞きながら、改正をしているというのが実態でしょう。
第二の点については、今後の立法の方向性は、民事局の立法姿勢については、とりたてて変える必要はないように思います。昔は、人手の問題もあり、法務省というのは、法改正をしたがらない代表的な役所のひとつであり、いつまでも不都合が是正されない時代もありました。今くらいがちょうどいいかなあと思います。ちなみに「エリート官僚支配」というのは、民事局の立法、特に会社法については、荒唐無稽な批判です。会社法は、行政に関連する部分(たとえば、登記義務)は多くなく、しかも、今回の改正では、なるべく行政の関与を少なくしようとするものばかりです。また、会社法の立案担当者グループのうち、行政畑を歩いてきた公務員は経産省からきた郡谷さんだけ、弁護士および公認会計士が5人、検事が2人、裁判官が2人ですから、現実問題として、「エリート官僚支配」とはかなり違うでしょう。弁護士だろうとなんだろうと、法務省に入ったら、もう「エリート官僚」だというのならば、どうしようもありませんが。エリート官僚支配という言葉のもつ意味を明らかにした上で、ご批判されたほうがよいのではないでしょうか。
>浜辺教授:かつては1000万円の資本金を調達するためには、それなりの事業計画を作って、出資者を説得し、はじめて出資を得て事業が開始できるが、その計画が十分ではないために、会社設立が見送られたといったことは、現実にあります。
葉玉:そういうケースもあるでしょう。でも、それは、「会社」の設立が見送られただけではなく、「事業」としても見送られたのではないでしょうか。
浜辺教授のご批判の最大の難点は、
① 事業の成否の問題と株式会社の設立の問題を混同している。
② 最低資本金制度の問題と、大規模会社とそれ以外の会社の区分をしようという立法姿勢(区分立法)の問題をあまり区別せずに論じている
という点でしょう。
浜辺教授が、株式会社の最低資本金制度の廃止を批判されるとするならば、個人もしくは合名会社としては「事業が開始できる」が、株式会社としては「事業を開始することができない」という事例を出されるべきでしょう。無理な事業を抑止することと、株式会社の設立を抑止することを同列に取り扱うべきではありません。浜辺教授のおっしゃるように、最低資本金制度の維持は、無理な事業を抑制する具体的な効果がある場合もあるかもしれませんが、そのような事業は、個人事業や合名会社としてはじめようとしても、駄目なのではないでしょうか。
逆に、個人事業などとして継続できるような事業であるならば、株式会社としても継続することができるでしょう。中小株式会社で、事業計画もなく、出資者は社長一人で株式会社を設立して成功したケースは、沢山あります。それにもかかわらず、最初に1000万円を用意できないというだけで、株式会社の設立を禁止すれば、株式会社を設立して事業を成功させるという芽をつむだけでしょう。また、ある程度事業が成功した後でなければ、株式会社に移行することができないとすれば、個人事業から株式会社に移行するときに、事業用資産の譲渡のために無用なコストを生じさせるという問題も生じます。
浜辺先生は、区分立法の理由付けとして、事業としての継続性やスクリーニングを持ち出している点に、実態にそぐわない面があると考えますし、事業としての継続性を確保できるかどうかは、出資金だけではなく、事業の収益性・将来性、経営者の信用などに依存するものですから、「事業を営むことが無理かどうか」、さらに、「株式会社として事業を営むことが無理かどうか」を、1000万円の出資金の有無という形式的な要件でスクリーニングしようとすること自体に無理があると思います。
>浜辺教授:「既に企業経営をしている人たちからも、「かつては、それなりに苦労して会社を作ったけれども、これからの会社法は安易に会社を設立して心配だ」といった意見を耳にすることが少なからずあります。
葉玉:その苦労というのは出資金1000万円のことでしょうか?また、その人は、平成2年以降に設立した人でしょうか?その「心配」は、会社法施行後、現実になりましたか?私もビジネスに携わっている人から、そのような声を聞いたことがありますが、よくよく聞いてみると、最低資本金制度自体に関する誤解や制度変更に伴う一般的な不安感に基づくものであったと思います。
また、安易に会社を作れる雰囲気があっても、実際に作るには、すくなくとも数十万円のお金が必要なのですから、本当に「安易に」作る人は少ないでしょう。仮に、安易に作ったとすれば、休眠会社になるかもしれませんが、それだけならば、誰にも迷惑はかけませんから、それを禁止する必要はありません。
こうしたことを、浜辺教授が「善人をも悪人にしてしまう危険性をはらんでいる」と表現することには、強い違和感を覚えます。
さらに、浜辺教授は、「会社法のような弊害予防・抑制・克服策を備えていない最低資本金の廃止」が問題と指摘されますが、実質的には、平成2年改正の前に戻るというだけであり、そのころの制度に加えて、ことさら弊害を予防・抑制・克服しなければならないような制度を会社法で用意する必要はないように思います。
>浜辺教授「、葉玉先生の<私は、ダミー会社が違法な行為を行うのならば、たった1社であっても、1回の行為であっても、許されないと思いますし、また、「数が少なければいい」などとも思っていません>という、くだりは、元々の、「ダミー会社が沢山設立されていたのでしょうか。」「さらに、会社法が成立した後、そのようなダミー会社が増えたのでしょうか。 おそらく、どれも実証的な研究がされていないため、浜辺教授も私も正確に答えをもっていないというのが現実ではないでしょうか。」という問いかけと、論理的にどのように整合するのでしょうか?これって、論理のすり替えではないのでしょうか。これは役人が国民を騙すために使う常套手段です。
葉玉: 論理のすり替えではありません。私は、違法行為を行うのならば、その違法行為を抑止すべきであって、違法行為の抑止との直接の因果関係がない最低資本金制度による設立制限を廃止することとは、切り離して考えるべきだということで論理は一貫しています。
>浜辺教授「最低資本金制度は、「健全な会社を作っていくため」の制度であって、「違法行為の抑止手段」という目的は、「健全な会社を作るため」という目的よりも小さい位置づけ、ないし副次的目的だったと思います。
葉玉: 最低資本金制度は、「健全な会社を作っていくため」という意味でも、不十分であまり意味もない制度でした。「健全な会社」とはなんでしょうか。設立当初、1000万円の自己資本があることが健全な会社なのでしょうか。とすると、有限会社は300万円だから不健全なのでしょうか。もちろん、そうではありませんよね。また、合同会社や合資会社は、出資金0円なので不健全なのでしょうか。
繰り返しますが、浜辺教授は、株式会社の設立の問題と、事業の継続性や会社の設立の健全性の問題を混乱されているように思います。浜辺教授が主張されているのは、区分立法の必要性の問題であり、設立の健全性の問題ではないはずです。
たとえば、間接有限責任のもとで資本金1円でも、代表者が、連帯保証して、会社が借り入れを行えば、事業は継続できます。それでは、不健全なのでしょうか。もし、その形態が「不健全」であるというのならば、合名会社は不健全であるというのに等しいわけです。
また、実際には、資本金1000万円で1億円の借り入れがあるところはザラであり、そうした会社は金利3%としても年300万円の金利になります。また、社長と従業員一人の給料等だけでも、1年間で数百万円になります。会社の一般管理費を考えると、1000万円・300万円という最低資本金をもとで、設立の健全性を語るのには限界があります。
私が、浜辺教授の理解がやや浅いと感じるのは、その理論が、株式会社のみにフォーカスされすぎているところに由来するように思います。ダミー会社であるとか、安易な会社設立という問題は、本来、会社全体について語るべき問題です。また、安易な起業というのなら、個人事業を含めて語るべき問題です。浜辺教授は、しきりに「不健全な起業の抑止」とおっしゃいますが、最低資本金制度は、単に株式会社としての起業を抑止しているに過ぎないのであり、起業そのものを抑止しているわけではないのです。それにもかかわらず、それを、株式会社の最低資本金制度の存在意義のように語られるのは、あまり論理的ではないと思います。
最低資本金制度の目的は、大規模会社と中小規模の会社を区分することにありました。それ以外は、健全な設立という点を含め、付随的な理由です。
これに対し、会社法は、会社が成長に応じてシームレスに組織を改変することができるように、そのような区分を取り払いました。最低資本金制度の撤廃は、そのひとつのあらわれでもあります。
私が、最低資本金制度には違法行為抑止の効果はないと主張したのは、浜辺教授が、ダミー会社が増えるという話をされたからであって、『違法行為の抑止オンリー』とは言っておりません。先ほどお話したように、最低資本金制度は、健全な会社の設立という点でも合理性に疑問の残る制度です。また、その主たる根拠であった区分立法の考え方ももやは維持すべき必要がないと考えます。
>浜辺教授「ダミー会社の問題は、会社法という枠組みだけではなく、刑法や警察行政との連携によって解決されるべき問題である」というのは、その通りですが、その辺は他の役所にお任せで「俺は知らん」というのも、ちょっと無責任ではないか、という感じがします。(お役所の縦割りですか)
葉玉:私は、「俺は知らん」といっているわけではありません。むしろ、私は、民事局のあと特捜部にいって、ダミー会社を使った刑事事件を捜査していましたから、わが身のことでもあったわけです。また、会社法に限っても、規制の強化・罰則の強化が図られている部分もあります。会社法立案担当者は、「俺は知らん」とか、縦割り行政とかと、もっとも縁遠い人たちであり、おそらく、刑事局の当時の担当者や他省庁の人が、浜辺教授のその批判を聞いたら、唖然とするでしょう。
浜辺教授「葉玉先生は「現在、社会的に必要な弱者保護や不公正の是正などのため実には社会保険庁の問題をはじめとして各種偽装問題でも露見してきたように、日本には不公正がまかり通るものだったのではないのですか?各種の社会問題やら、病理現象に目をつぶった、お気楽な、世間を知らないエリート官僚の意見のように聞こえました。「憲法上の要請」まで持ち出して、程度不明な「具体的な効果」を基準にして、制度の採否を決めるのは、やはり役人的な発想にすぎません。」
葉玉:この一文は、浜辺教授のジョークだろうと思いますので、まじめに反論するのもどうかと思いますが、①どのような規制をするかということと、②規制を破る人がいること、③規制が破られたときに、どう実効的に対処するかということは、まったく次元の異なる問題です。それとも、浜辺教授に万能の立法権限を与えれば、社会保険庁の問題も、偽装問題も、その他の各種社会問題も、何も起こらなくなるのでしょうか。それは、違いますよね。
病理現象が起こることを前提にどう対処するかが立法のあり方ではあると思いますが、「病理現象が起こるという具体的危険がないのに、人の権利を制限する」という発想は、それ自体が病理です。そのような発想は、公務員が絶対にとってはならない立案姿勢であると思いいます。
浜辺教授「最低資本金制度そのものが、経済社会の現実にあわなかった」のではなく、現実には、少しでも多くの起業を図ろうという狙いでした。論理よりも、経済的・政治的な要請によるものだったのではないですか? つまり、日本の企業社会ではなじみのある株式会社と有限会社というのは、経済社会の現実をある意味では反映していて、適合していた面もありました。ところが、無計画でも、何でも良いから、とりあえず設立される「株式会社」を増やして経済が良くなったように見える数字を偽装でもしようと思ったのか、さまざまな思惑の人たちの圧力があって、官僚が「最低資本金制度」の立法趣旨などを無視して、安易に飛び乗ったというのが、実際なのではないですか?」
葉玉:株式会社が増えても、経済がよくなったように見える数字は偽装できません。正直なところ、浜辺教授の言っていることは、ナンセンスです。
また、株式会社と有限会社は、経済社会の現実をある意味では反映していたかもしれませんが、株式会社の中に、有限会社的なものが沢山存在していたことを忘れてはなりません。今回の株式会社と有限会社の一体化の本質は、有限会社的株式会社を、どこに位置づけるかという問題なのです。浜辺教授ならば、そのような有限会社的株式会社をどうされますか?その問題を無視して、株式会社と有限会社の区別をすることは無意味です。
浜辺教授「今回の会社法は、要するに「規制される側」の要望ばかりを聞いて、「規制によって守られる人たち」の意見をどれだけ聞いたのか極めて疑問です。」
葉玉:浜辺教授のいう「規制によって守られる人たち」の具体的な姿が見えません。会社法施行1年半たって、その人たちの利益は害されたのでしょうか?害されていないはずです。浜辺教授の論理がおかしいのは、具体的な姿を描くことなく、「利益団体」(=規制される側)と「取引先、消費者」(規制によって守られる人たち)というラベリングをしていることに起因しているのではないでしょうか。
利益団体は、経団連にしろ、中小企業団体にしろ、会社の要望を集約する組織です。そして、会社の取引先の多くは、やはり会社であり、特に「健全な設立」に関係しているのは、売掛金や融資等により株式会社の債権者になる会社が主であり、現金現物取引の多い消費者ではありません(もちろん、NOVAのように消費者が債権者になる場合もありますが)。
したがって、利益団体は、規制される側と規制によって守られる人たちの双方の利益を集約しているのであり、浜辺教授がご自身のラベリングの中身をもう少し検討すれば、より説得的かつ合理的な論理を構築できるのではないかと思います。
浜辺教授「まず理解すべきは、事業を行うためには、何も会社を設立する必要はない点です。多くは個人事業者として、できるビジネスはいくらでもあるのです。しかし、あるレベルになると、会社形態が必要となったり、会社にしたいという場合があり、多くの人々は有限責任の会社を選択します。その場合には、それなりのルールが必要だから、会社法があるのでしょう。」
葉玉:個人事業でもやれるような事業を、株式会社でやってはいけないのですか?別に禁止する必要はないと思います。最初から株式会社にしておいた方が、あとで株式会社になるよりも、無用なコスト(たとえば、事業用資産の登記登録、免許の移転など)を節約することができます。浜辺教授のように遠回りをさせる根拠は何もないはずです。
浜辺教授「伝統的な「株式会社」の歴史的意義とか、現代における社会的重要性、社会的責任、公共性なんて、もうここに書くまでもないでしょう。」
葉玉:株式会社に限らず、事業を行うものは、それぞれに社会的重要性、社会的責任、公共性を持ちます。そのような抽象的な命題から、何か具体的な立法論を導くのは、あまり賛成できません。
浜辺教授:「「本来、出資者は、会社債権者に対しても、責任を負うべきだが
、一定の基礎があった場合には、有限責任を認めてあげよう」という思想は、間違っているのでしょうか?「会社は、法的な意味でも、実態としても、出資者とは切り離された存在である」というのは、それを切り離すべき根拠が必要であるはずで、むやみに切り離すのはおかしいと思います。」
葉玉:私は、合名会社・合資会社・合同会社も含め、「会社」と呼んでいますので、そういう前提で、私の発言をお読みください。法人というのは、それを設立した自然人とは別個の人格なので、法人なのです。これは、会社法という狭い世界だけをみずに、各種法人法制をみれば、法律上、当然の事理であると思います。
浜辺教授:「会社に対する権利を取得することは意思表示の内容となっていますが、その契約に名前もでてこないような背後の出資者の財産を当てにする意思は見受けられません」と葉玉先生は述べますが、これは誤りです。公開会社ならば別ですが、小さな会社は、誰がオーナーの会社であるのかは大問題で、彼の会社ならば、信頼して取引するというのが実態です。」
葉玉:浜辺教授は、意思表示理論の基礎について誤解があるようです。私の発言は、意思表示理論をそのまま述べているだけであり、誤りではありえません。
小さな株式会社で、誰がオーナーの会社であるのかが大問題であるのは、当然ですが、そのような場合に、オーナーに対して責任追及をしたいのならば、会社の債務に連帯保証を求めるのが原則です。そうでなければ、オーナーが違法行為をやった場合に429条の責任や不法行為責任を問うか、法人格否認の法理(有限責任否認の法理ではありません)を用いるかなどを模索することになります。「法人格を認める」ということと、有限責任は別の次元ですが、「法人格=有限責任」が原則であり、例外が、合名会社や合資会社において、明文で認められた直接無限責任なのです。これは、他の法人法制をみれば、法人の設立者や運営に携わる理事について、有限責任の規定を置いていないところからも明らかです。
浜辺教授「当局も、会社法によって法人格の濫用が増えるだろうということは認めているのです。すなわち、平成18年税制改正で、税務専門家の間で評判が悪かった同族会社の行為計算否認の制度の適用範囲が逆に拡大されました。
当局の説明によれば、「・・・その背景として、会社法の下では従前よりも会社が設立しやすくない、会社形態の濫用が増える懸念があるからということがあります。」
葉玉:同族会社の行為計算否認は、株式会社にのみ適用されるものではありません。持分会社にも当然適用されます。浜辺教授が批判していたのは、最低資本金制度の廃止によるダミー会社等の設立の問題ですよね?論点がずれているような気がします。
また、私は、最低資本金制度のように設立自体を困難にするのは合理的ではない、設立を認めた上で、違法行為を抑止すればよいし、会社法だけではなく、その他の法律でトータルで抑止するように配慮しているとお話してきました。浜辺教授のご指摘になったのは、まさに会社法以外で個別の違法行為(濫用行為)を抑止するための改正です。
浜辺教授「このように、「法人格を認める」ということと、有限責任は別の次元ではありますが、葉玉先生が混同したように、「法人格=有限責任」という捉え方をされることもあり、とりわけ税務当局は上記のような説明で、運用上は問題のあった制度を拡大しているわけです。このように見ると、葉玉先生の議論は「黒を白と言いくるめる」類の議論であって、また、当局さえ認めてきたことを隠して民間人を批判する、極めてアンフェアなものだと思います。」
葉玉:すいません。浜辺教授のおっしゃっていることの意味が分かりません。ただ、私は、論理的にお話をしているだけで「黒を白といいくるめる」ような議論はしていないと思います。
浜辺教授「「株式会社」は、株式を発行し、将来的には公開会社を目指せるような器であって、それに対して有限会社は小規模閉鎖会社というブランドであったという両者の区別があったことを前提にしたものであって、十分に整合的な議論です。恐らく、ここは、「有限会社廃止ありき」でしか考えていないことによる読み間違いの批判と思われます。どうして全部「株式会社」にしてくれ、という話になっているのでしょうか?株式会社と有限会社とあることで、不都合がありましたか?」
葉玉:旧商法でも、有限会社は、組織変更で株式会社となり、公開会社を目指すことはできました。もちろん、譲渡制限株式会社も、譲渡制限を撤廃することにより、公開会社をめざすこともできました。この2つは何が違うのでしょうか?
浜辺教授は、現在の多くの株式会社が、譲渡制限会社で実質は有限会社とあまり変わらないという現実について、どう対処すればよかったのか、という点について答えてくれません。今回の改正のポイントは、そこなのです。
なお、株式会社と有限会社とあることで不都合はあったかという点については、まさに浜辺教授のように「有限会社」は、小規模閉鎖会社というラベルを貼られること自体に不都合があったわけです。有限会社でも資本金が5億円を超えるところもありますし、従業員数も何百人も存在する会社もあります。会社を分類するのならば、株式会社と有限会社の「法的最低ライン」を見比べることによりラベリングするのではなく、個々の会社の出資金、従業員数、売上、利益などを見るべきです。
浜辺教授の区分立法の考え方は、無意味なラベリングをすることにより、特に法的リテラシーの低い人に対し、有限会社に対する無用の誤解を与えるという点が問題だったと思います。
浜辺教授「どうも節操もなく、「株式会社」を解放して、いったいどういう
意味があるのか、その辺りが立法政策として問題があり、結局、論理よりも、経済政策・政治的妥協にすぎないものを、葉玉先生が一部利益団体のために理論武装をされているだけのことのように思います。従って、そうした利益団体から支持を受けるのは当然ですよね。もっとも、官界から民間に天下りしても、官界での経験を利用して「活躍」している分だけ、何もしないで金だけ取っている天下りと同列にする趣旨ではなく、葉玉先生は立派であり、貴重な存在です。」
葉玉:浜辺教授の発想が間違っています。まずは、株式会社を開放した場合にどんな弊害があるかを考えるべきです。浜辺教授の発想の根底には、区分立法があると思います。むしろ、私は、浜辺教授に、なぜそんな区分をしなければならないのかを教えてもらいたいところです。誰のために区分しなければならないのか、なぜ会社の実態ではなく、最低資本金で区分しなければならないのか、正直、なんの合理性も見出すことができません。
また、一部利益団体のための理論武装というのも、浜辺教授の幻想です。
浜辺教授:「どうして「有限会社」がなくならなければならないのでしょうか?「有限会社」は、廃止しなければならないような悪い制度だったのでしょうか?有限会社を株式会社にする必要性が、本当にあったのでしょうか?選択肢としては、有限会社のみ最低資本金を廃止して、利用者からみて、有限会社は資本的裏付けがない会社、株式会社は少なくともある程度の資金的裏付けからスタートして、それなりの企業を目指す会社といった棲み分けを志向するということは、そんなに悪いことでしょうか?」
葉玉:有限会社がなくなったのは、株式会社の設立や機関を簡素化した結果、有限会社という形態を株式会社と別に残存させておく意味がなくなったからです。
また、現実に有限会社的株式会社が多数存在することや、有限会社に対するラベリングに嫌気がさした有限会社がそのままの形で株式会社になりたいという要望が強かったというのが一体化の動機でしょう。
浜辺教授は、有限会社は「資本的裏づけのない会社」とおっしゃいますが、資本的裏づけが株式会社よりも大きい有限会社もありますし、資本金の最高限度額が定められているわけでもありません。浜辺教授自身が、まさにラベリングの罠にひっかかっています。また、「それなりの企業をめざす」のは株式会社だけの専売特許ではありません。持分会社も有限会社も、株式会社をこえる事業をやることを目指してもいいのではありませんか?売上高や利益の額が、会社の類型によって規制されるということもありません。
浜辺教授の区分立法は、お上が企業の大小を決めて、ラベルを貼ってやるという考え方であり、会社の実態と異なるところで、ラベルを貼ることの問題点を見つめなおすべきです。
浜辺教授のように「棲み分けを志向する」考え方は立法論として十分ありえますが、「日本国の会社法制の歴史」の中で、資本欠損時の解散義務を廃止したことや、株式譲渡制限を認めたことで、そうした会社が多数を占めるようになり、もはや有限会社と株式会社での「棲み分け」というのは、法的にも実質的にも、困難になっており、また、その棲み分けが何かに役に立つようなこともないと思います。
浜辺教授「法制度を改正せず放置するという選択肢をとれば、実質的違法状態(活動しない取締役や監査役がいる状態)を放置することになる」などといいますが立法趣旨が正しければ、違法状態は是正する方向で、いろいろと調整したり、新しい知恵を出したりすべきなのであって、それを単に放り出して、全部「株式会社にするしかない」というのは、あまりに短絡的です。」
葉玉:「棲み分け」の論理に合理性と実効性があれば、よいのですが、残念ながら、そうした考えで行われた旧商法の改正が、日本の実体にそぐわなかったのが現実です。すなわち、「立法趣旨が正しくなかった」のです。ですから、現在では、「放り出す」こと自体に価値があります。
浜辺教授「結局、「株式会社と有限会社の一体化の問題は、法制審議会における最大のテーマのひとつとして活発に議論し、整理された」と、ここでも「お上の権威」を持ち出しますが、結局「特例有限会社」は残っている、上記の疑問について、どう考えているのか明らかではない、とにかく起業促進という目的のために理論が政治に負けただけのことではなかったのか、という疑問が残ります。つまり、最低資本金廃止が株式会社全体に及んで、その株式会社はいろいろなタイプがあって、それぞれの使い方は、民間に丸投げで「自由にどうぞ」という形で、ソフトロー的な規律自体は良い面もありますが、方向性はもう少し明らかにする必要があったのではないかということなのです。まあ、法制審議会が決めたから「仕方ないじゃないか」というのであれば、それこそ仕方ありませんが。」
葉玉:法制審議会は、構成メンバーを見ていただければわかるとおり、「お上」とは違います。また、法制審議会が決めたから「仕方がない」というのもおかしい話であり、民間の委員を中心として真摯に議論し、合理的な結論になったと思います。さらに、会社法の示す方向性は、株式会社を設立する際のハードルを下げるという点で非常に明快であると思います。
なお、「政治に負けた」の意味がわかりません。むしろ会社法の立案担当者は、タフネゴシエーターで、自分の好き勝手に作っているという悪評が立つほどで、あまり「負ける」ような仕事はしていなかったと思います。浜辺教授が、会社法の立案プロセスを実際に体験すれば、その批判が的外れであることが分かっていただけるのですが。
浜辺教授「有限会社と株式会社という二つの分かりやすい区別がなくなって、会社法では、基本的なところから見えにくくしてしまったのです。今回の会社法は、明らかに強者に有利なのであって、弱者のためのことを考えたとは思えません。それは今後取り上げられる論点にもなってくるでしょうが、「むしろ「株式会社」という認識すらなく、取引をしているのが実態なのではないでしょうか」などというのは、庶民を愚弄するものではないでしょうか。」
葉玉:浜辺教授のおっしゃる「法的リテラシーの低い人」とは誰なのでしょうか。検事としての経験からすれば、詐欺集団が、消費者相手に詐欺をしているとき、株式会社という形態を使っていないことは沢山あります。誰だって、有限会社と株式会社の区別くらいは、つきますが、具体的にどう違うのかを言える人は、少ないのではないでしょうか?「強者弱者」「庶民」という言葉は、具体的な中身を伴わないと何の説得力も持ちません。
浜辺教授「私が主張しているのは、もっと分かりやすい法律を作れということであり、徒に難しい法律を作ったことに対する批判もあるのです。
昔も分からなかったから、分かりにくくても良いのだということにもなりません。葉玉先生、「分かりやすい法律を作ろうという意識はなかった」くらいは自白してもらえませんかね。」
葉玉:自白というと、何か悪いことをしたような感じですが(笑)、まず「分かりやすい法律」の定義を浜辺教授にお聞きしたいと思います。それが、法律の知識も、会社の知識もない人でも、簡単に分かるという意味であるならば、会社法でそれを実現するのは、不可能です。
また、浜辺教授は、立法プロセスとそれの持つ意味をより理解されるべきでしょう。
私たちは、現代の法制執務に則って、法律を作らなければなりません。そこでは、主語述語を明確にしなければならない、他の条文との関係を明確にしなければならない、準用したら読み替え規定を置かなければならないなど旧商法が制定されたころとは比べものにならない細かいルールがあります。この細かいルールは、すべての法律に共通の「読み方」「解釈の仕方」を設定することで、法制度全般の明確性や理解しやすさを助けるためのものです。
また、会社法が基本法であり、他の法律から多数準用されるということからくる制約もあります。会社法の表現が他の法律に影響を与える以上、会社法の表現自体を他の法律で準用しやすくする必要があります。
さらに、会社法は、これまで特別法とされていたものを含めて、一本の法律にまとめあげるという難しさもありました。
私たちは、そうした制約の中で「普通の法律」を作ることを目指したものであり、できるだけ分かりやすくする努力はしているつもりです。
その結果、浜辺教授は「分かりにくい」と思ったのならば、それはそれで仕方がないです。いいわけをするようなことでも、謝ることでもありません。「分かりやすいと思え」と強制することはありません。浜辺教授には、分かりにくかった。それ以上でもそれ以下でもありません(できれば浜辺教授が、金商法や税法を分かりやすいと見るかどうかを聞かせていただきたいと思います)
浜辺教授「ブランドとは、他の銘柄と異なる明確な差別性があることとか、ある銘柄に対して社会や消費者が抱いている印象」であって、株式会社のブランドと、有限会社のブランドとがあったところ、「株式会社のブランド価値とは、最低資本金制度導入前から形作られてきた規制を受けている総体であって、もともと公開会社のイメージの「株式会社」ブランドです」と説明しておりました。葉玉先生のこの辺りの論理操作は正しくなく、結論として「旧商法の株式会社よりも会社法の株式会社の方がブランド価値が高いということになる」ことはなく、私の議論では、会社法の株式会社にはブランド価値がなくなったため、当然のことながら、旧商法の株式会社、有限会社よりもブランド価値が低くなったということになります。これを図式化すると、こうなります。」
葉玉:分かりました。ようするに区分立法をなくしたこと自体をブランド価値がなくなったと表現しているということですね。区分すること=ブランドならば、有限会社は、今も区分されているからブランドですから、確かに浜辺教授の論理には矛盾はありません。
ただし、区分立法の考え方を尊重していること自体、私は、政策的に誤りであると思います。
浜辺教授「「会社法の位置づけ」について、「実際に、具体的な法的弱者の救済を行う制度は、刑法や各種消費者保護立法によって用意されています」と葉玉先生は主張します。しかし、それで本当に十分な状態になっている前提で言っているのでしょうか、また、会社法でやることが本当になかったのか、ということです。私は、会社法では会社の最低限度の健全性を確保するくらいのことや、不祥事が発生した場合に、いたずらに一般法理に頼るのではなく、会社法に、株式会社の健全性確保のための十分な具体的方策(まあ、これは内部統制が一部ある点は評価しています)やら、救済方法をビルトインしておくべきだったのではないかということです。」
葉玉:健全性の考え方自体に違いがあるので、救済措置の十分性についても意見の相違があるということでしょう。十分か不十分かは、最低資本金制度がなくなったことにより、どのような不都合が生じるかによって、今後、浜辺教授が正しいのか、私が正しいのかが自然とわかることでしょう。
浜辺教授は、民間の行為に規制を及ぼすことが好きなようですが、私は、基本的には、嫌いです。また、今のところ、会社法による規制緩和によって、不都合が生じていることはないという自信があります。
浜辺教授:「「民法」は、一般法ですから、最後の砦で、まったく「弱者切捨て」ではなく、他の法律で救えなかったものをフォローするものですから、葉玉先生のこの辺の説明は、民法の位置づけも誤解させるような記載になっています。それを、まるで、私が誤解しているように書いているので、始末が悪い書き方で、これまたアンフェアな記載です。」
葉玉:アンフェアだと受け取られたとすれば、申し訳ありません。ところで、会社法は、民法以上に他の法律に準用されている基本法だということは、どのように評価されているのでしょうか。
浜辺教授「第二の的外れ」として、今回の規制緩和立法を「弱者切捨て」につなげている点だとして、いろいろと論じております。この点は、規制緩和が各種の弱者切り捨てをしている一般論を確認した上で、葉玉先生の理由付けを見てみましょう。「最低資本金制度の導入の前までは、35万円あれば会社が設立できていたわけですが、そのときは弱者切捨て状態だったのでしょうか?」この点についてはその時代は、格差社会でもなく、グローバル競争も今ほどではなかったのです。社会が構造的に変化して、弱者切り捨ての風潮を後押しする形になっているということです。」
葉玉:この部分は、浜辺先生の論理の最大の弱点です。格差社会やグローバル競争の中身をはっきりさせないまま、それを弱者切捨てと断定し、さらに、その風潮を会社法が後押ししているという論理は、申し訳ありませんが、私の理解を超えています。
平成2年と現在で、どんな点に格差が生じているのか、グローバル化という点でどのように昔と違うのか、また、その差異が、現実に存在した最低資本金制度の廃止とどのような関係に立つか、を明確にされてください。
私は、誰もが納得するような明確化は不可能であると確信しています。
浜辺教授「規制緩和前には、いまほど弱者と強者の格差が社会問題化するほどではない社会だったわけですから、「ダミー会社として、どんどん使われ、弱者切捨てがされていた」わけがありません。それに、「ダミー会社の問題」副次的な問題なのですが、論理的帰結として、ダミー会社を作るコストが安くなることは間違いないわけです。つまり、違法行為がするのが楽になるわけで、違法行為に手を貸すような話であるという側面があることを指摘しているのです。」
葉玉:すいませんが、格差社会とダミー会社による弱者切捨てとの関係が、どうしても分かりません。具体的には、どんな事象を念頭に置かれているのかを明らかにされてください。
浜辺教授「本来の資本金制度は「健全な企業」のために、事業計画と資金繰りなどをきちんと考えてこそ「会社」であって、個人商店とは区別すべきだというのが、一次的な議論です。」
葉玉:個人商店でも事業計画と資金繰りは考えるべきです。事業継続の問題を株式会社の問題に矮小化するのはおかしいと思います。
浜辺教授「最低資本金制度のために、株式会社や有限会社を作るのに苦労している」という現実はご存じのようですが、その場合に、きちんとした事業計画なり、成功しそうなビジネスであれば、出資者が現れたり、借金をしたりできるのです。それを「見せ金」で無理している人もいるわけで、そんな株式会社も本当に認めなければならないものですか?個人事業者ではだめなのでしょうか?とにかく「株式会社」にしないと、ビジネスできないというのであれば、それはむしろ、そういう資金くらい集めるべきだという要請があったからではないですか。」
葉玉:経営者以外の出資者がいるような株式会社が全体のどの程度あるかをご存知でしょうか。その割合が著しく少ないことを認識された上で、論じられなければ、理由として貧弱です。また、個人事業者では駄目かと問う前に、個人事業者と実質的にかわりないような株式会社が沢山あるという現実を見てください。
浜辺教授は、そうした株式会社を個人事業者に戻せというのでしょうか?そうではありませんよね。
そこが、議論の出発点です。
個人事業者では駄目か、とういう問題提起ではなく、「株式会社では駄目か」という問題提起が行われるべきです。
浜辺教授「これからは、この辺りが、何だかワケが分からない世界になり、それこそ企業社会における秩序が分かりにくくなってしまうのです。過去の最低資本金規制の下で会社を設立した、まじめな経営者は、みな「苦労を強いる」最低資本金は悪い制度だったという評価なのでしょうか?また、「違法行為を誘発する」というのは、どういう違法行為を想定しているかが問題で、会社法のほうが、より大きな違法行為を誘発する構造になってはいないか、という趣旨のことは前に述べたので繰り返しません。」
葉玉:まじめな経営者に「最低資本金はどんな役に立っているのか」を聞いていただければ、ほとんどの人が、答えられないと思います。なお、違法行為とは「見せ金」のことであり、実際に代表者の借り入れによって出資金を調達した会社は沢山あります。なお、会社法は、より大きな違法行為を誘発する構造にはなっていません。
浜辺教授「とはいえ、「最低資本金制度の廃止」そのものだけを批判しているわけではなく、中小企業の実態だけでいえば、経営者とすれば「有限会社のみの最低資本金規制廃止」という選択肢もありえたはずで、ここで「弱者切捨て」とは、前の反論でも説明していた通り、その取引先、消費者など、会社と取引する「法的弱者」であって、「中小企業経営者が株式会社を手に入れやすくなった」ことは当然の前提にして論じているからで、読解不足か、故意の歪曲か定かではありませんが、ちょっと納得できない断じ方です。」
葉玉:この記述を見る限り、浜辺教授は、株式会社を実体以上に高く評価し、有限会社を必要以上に貶めすぎているような気がします。たとえば、資本金1000万円の株式会社と資本金10億円の有限会社は、浜辺理論では、どちらが信頼できる会社なのでしょうか。最低ラインだけで「ブランド」を決めるのがよい法制でしょうか?
また、「株式会社」というブランドを信じて取引する取引先や消費者がどれだけいるのかどうか、よく分かりませんが、少なくとも、最低資本金制度というのは、そういう人を保護するための制度ではなかったと思います。
浜辺教授「「最低資本金制度」の意義は、これまで述べてきたところから明らかだと思います。別にこれが積極的に「弱者救済のため」に役に立たなくても、せめて健全な企業社会になる方向で考えて欲しかったということなのです。
つまり、現行法の最低資本金制度廃止は、
①有限会社と株式会社の区別がなくなり
②病理現象、弊害があった場合のフォローが会社法に乏しく、他の法律(
民法の一般法理などに丸投げ)、ない
③健全化を図る機能が弱まった
等の問題があったように思います。」
葉玉:これまで述べてきたとおり、浜辺教授のおっしゃる病理現象や弊害は、現実のものではありません。ゼロとはいいませんが、それで、最低資本金制度を維持しなければならないほどのものとは考えがたいです。
浜辺教授「立法担当者だったけれども、民間人になったのですから、もう少し正直に、自分に不利な事情も開示して、深い議論を展開してくれればとまで期待するのは無理ですかね。」
葉玉:私は、公務員か、民間人かにかかわらず、常に客観的に物事を議論しているつもりです。自分に不利な事情があれば開示するのはやぶさかではありませんが、有利不利は、どうだっていいことであり、真実かどうか、現実的な懸念なのかどうか、理論的かどうかが重要です。
残念ながら、浜辺教授は、誤った事実認識をもとに批判されているように思います。また、浜辺教授の最大の問題点は、現実に実施されていた最低資本金制度の効用を高く評価しすぎている点にもあると思います。
そのために、その廃止に伴うメリットとデメリットの利益考量が(少なくとも私にとっては)まったく説得力を持たないのです。
さらに、株式会社と有限会社の区分について、昭和25年改正当時ならば、浜辺教授の考えも、「これから、がんばりましょう」ということで支持できたのかもしれませんが、平成17年会社法成立前の株式会社と有限会社の現状からすれば、そのような区分を維持する合理性はもはや失われたというほかありません。
浜辺教授がより「深い議論」を展開していただければ、私はどこまでもついていく所存ですので、以上の反論を前提に、「なるほど。」と思うことを指摘をしていただければと思います。
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